紅茶は世界で最も親しまれているお茶で、日本でも好んで飲んでる方も多い飲み物です。
紅茶と言えばイギリスなどヨーロッパの国のイメージが強いですが、その紅茶がいつ・どこで生まれたのかご存じでしょうか?実はヨーロッパではないんです!
それではいつ紅茶が生まれて、そしてどのようにして世界に広まったのでしょうか?
この記事では紅茶の誕生など紅茶の歴史をご紹介します。
ここで知った歴史を踏まえて紅茶を飲んでみると、また違った楽しみ方があるかもしれませんよ!
紅茶が誕生したのはいつ?ルーツはどこ?
紅茶発祥の国はどこかと聞かれたら、どの国を思い浮かべますか?
イギリスとかのヨーロッパの国、もしくは紅茶大国のインドなどでしょうか?
紅茶はヨーロッパで多く飲まれていたり、インドは世界一の紅茶生産国なのでそのどちらかかな?と思いますが、紅茶のルーツを辿るとなんと!
元々中国の武夷茶がイギリスに輸入される過程で紅茶になったのです!
茶葉を半発酵させた、今でいうウーロン茶のこと。英語読みでボヘア茶やボヒー茶、ボーヒー茶とも呼ばれています。
実はウーロン茶と紅茶、あと緑茶は茶葉の発酵度合いが違うだけで、元々は同じチャノキの茶葉なんです
元々中国のお茶だったものがなぜ紅茶になったのか?そこに至るまでにはさまざまな経緯がありました。
ちなみに中国でお茶が普及し始めたのは589年からです
ヨーロッパへ最初にお茶を輸入したのはオランダ
紅茶のルーツは中国と言いましたが、紅茶が誕生した最初のきっかけはヨーロッパへの輸出でした。
まず、そもそもお茶を飲む文化がヨーロッパに広まり始めたのは17世紀頃のオランダからです。
それ以前にもわずかですがお茶がヨーロッパに伝わることもあったそうです。でもそこからお茶の広まることはなかったようですね
ですが1602年にオランダがインドに設立した貿易会社「オランダ東インド会社」がお茶を輸入し始めたことで、オランダの上流階級でお茶などのアジア文化が流行りました。
1600年代にイギリスやオランダ、フランスなどヨーロッパ各国がインドにそれぞれ設立した貿易会社。インドやアジアとの貿易と植民地経営などを行っていました。
またこのとき輸入していたお茶は中国や日本の緑茶で、最初は嗜好品としてではなく薬用として伝わってきたようです。
そして1630年代になる頃にはオランダに喫茶が浸透し、1650年代になる頃にはイギリスにもお茶の文化が広まっていきました。
どちらかと言えばオランダよりもイギリスのほうが紅茶のイメージが強いですけど、オランダのほうが先にお茶を飲む文化があったんですね
その理由はおそらく当時、アジアとの貿易をほぼオランダが独占していて、イギリスもオランダ経由でお茶を買い付けていたことも大きいのではないかと思われます。
イギリス喫茶ブームの火付け役は?
ヨーロッパにお茶を広めたのはオランダですが、その後の喫茶文化の発展や紅茶誕生を語る上でイギリスは絶対に外せません。
まずイギリスに喫茶文化が広まったのは
- コーヒーハウス「ギャラウェイ」でのお茶の販売
- 国王チャールズ二世に嫁いだ「キャサリン王女」
主にこの2つがきっかけになっています。
コーヒーハウス「ギャラウェイ」でのお茶の販売
コーヒーハウスとは17世紀半ば~18世紀にかけてイギリスで流行った、トルコ由来の喫茶店兼社交場のお店です。その名の通りコーヒーをメインに提供するお店でした。
最盛期の時代ではイギリス国内で3000件以上のコーヒーハウスがあったほど人気を博していたそうですよ。入場料を払えば何時間でも居られ、階級制度の厳しい時代でも身分にかかわらず入店できるお店でした。・・女性は入れなかったようですが
初めてコーヒーハウスでお茶が提供されたのは1657年。「ギャラウェイ」というロンドンで店を構えていたコーヒーハウスからで、これが初めてお店で提供されたお茶です。
この時提供されていたのはお茶は、ほとんどがまだ緑茶で「健康にいい飲料」つまり薬用として提供されていました。お店の広告ポスターにも「東洋の神秘薬」と紹介されていて、20項目の効能も記載するなどまだ嗜好品ではなかったのです。
当時お茶は1ポンド(約454g)当たり今の円の価値だと約6~10万円とかなりの高級品でした。仮に一杯を茶葉5gとして計算すると、一杯あたり約666~1,111円、3gとしても一杯あたり約397~662円ぐらいでしょうか?
コーヒーハウスでは上流階級だけでなく文化人や中流家庭の人も客として入れたので、一般市民にも広く知られるようになったのは、コーヒーハウスでの提供が大きな要因になっているでしょう。
国王チャールズ二世に嫁いだ「キャサリン王女」
イギリスに喫茶の文化が広まるもう一つのきっかけを作ったのは、1662年にポルトガルからイギリスの国王チャールズ二世の元に嫁いできた「キャサリン王女」です。
キャサリン王女は持参金に中国や日本の茶器や家具、さらに大量の砂糖を持って嫁いできました。砂糖は当時銀と同等の価値があったので、チャールズ二世も砂糖を持参金として受け入れたそうです。
ポルトガルは国の領土でサトウキビを栽培していましたが、イギリスはサトウキビの栽培ができず輸入に頼っていたので砂糖はかなり貴重だったんです
この時キャサリン王女は、自身の健康のためにと一緒にお茶も持ってきていました。お茶を日に何度も飲んでいたキャサリン王女は、砂糖を入れて飲むというこの時代ではかなり贅沢な飲み方を好んでいたそうです。
高級品に高級品を合わせるとは贅沢の極みですね~
そしてキャサリン王女は自分の飲んでいるお茶を、イギリス宮廷の貴婦人たちにもふるまっていたとされています。
そこから王侯貴族の間でお茶が流行り、当時は薬用の面が強かったお茶もキャサリン王女の影響で徐々に嗜好品になっていきました。
つまりキャサリン王女は、紅茶を今のような嗜好品にした「先駆者」なんですね!
紅茶はイギリスと中国の貿易によって誕生した
お茶の文化が徐々に発展しつつも、直接の輸入ではなくオランダからの買い付けでお茶を輸入していたイギリスですが、1672~1674年に起こった「第三次英蘭戦争」後にお茶の輸入の権利を手に入れ、直接中国からお茶を輸入できるようになりました。
中国との直接的な貿易が始まって、お茶の輸入が始まったのは1689年。中国の福建省・厦門に東インド会社の貿易拠点を置いて、厦門へ集めたお茶をイギリスへ輸入していました。
そして、このとき厦門に集められ輸入されたのが、紅茶の起源とされている武夷茶でした。
武夷茶は当時の中国ではあまり人気のないお茶でした。ですがイギリス人好みの味わいだったこともあってイギリスの武夷茶人気はどんどん高まりました。
お茶に砂糖を入れて飲むこともあった当時のイギリス人には、緑茶よりも渋味が強く砂糖が合う武夷茶が好まれたそうですよ~
そして、この武夷茶を完全発酵させたことで紅茶が誕生しました。
ですが!
実はその紅茶になった経緯、はっきりわかっていないんです。
紅茶の発展には以下のような説があります。
- 長期間の輸送でも傷みにくい発酵茶を生産するようになった
- 船で運んでる最中にお茶の発酵が進んで紅茶になった
- より飲む人の好みに合わせて発酵を進めた結果今の紅茶になった
1は、中国から4か月以上もかかる船旅で傷みにくくするために発酵したという説です。たしかに発酵した茶葉は酸化しにくく傷みにくいので、より保存が効くように発酵を進めたと考えるのは十分あり得ますね。
2は、船内で保存していたお茶の発酵が進んだことで紅茶になったという説ですが、お茶の発酵が船内の環境で進むことはまず無いと言われているので、この説はあまり有力ではないようです。
3は、武夷茶をよりイギリス人の好みに合わせた結果生まれたという説です。お茶がイギリスに売る商品であった以上、より需要に合わせて商品を改良するのは十分あり得る理由でしょう。
どの説が正しいのか現在でもわかっていませんが、この紅茶誕生からイギリスの紅茶文化はどんどん発展していき、輸入量も18世紀の初め頃はまだ緑茶が主でしたが、50年ほど経つと緑茶と紅茶の輸入量が逆転し、そのほとんどが紅茶になっていきました。
私個人としては顧客の好みに合わせて生まれた3が理にかなっているかな~?とは思うんですが皆さんはどれだと思いますか?
紅茶文化の歴史:あの文化はいつ生まれた?
17世紀後半に生まれ、後に世界で一番飲まれているお茶になった紅茶ですが、そこに至るまでにどんな発展をしてきたのでしょうか?
ここからは紅茶の重要な出来事など紅茶文化の歴史をご紹介します。
TWININGSトワイニング社の創設
トワイニングとはイギリス最古の300年以上続く紅茶会社です。紅茶に詳しくない方でも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?
実は、紅茶が今のように広く一般化されたのにはトワイニングの存在が大きく関わっています。
トワイニングは1706年にトーマス・トワイニングが創業した紅茶も提供するコーヒーハウス「トム」から始まりました。
ロンドンのストランド通りで開業された「トム」は当時では珍しい紅茶を提供するお店としてロンドン紳士に人気のお店になったんですよ
「トム」は業績を伸ばしていき今後も紅茶の需要が増えると考えたトーマスは1713年になんと、女性も入れるイギリス初の紅茶専門店「ゴールデンライオン」を「トム」の隣に開業しました。
「ゴールデンライオン」は女性も入れるとあって女性からの人気も得て、さらに茶葉の販売も行っていたので、お店だけでなく家庭でも紅茶を飲むことができるようになったんです。
この「ゴールデンライオン」開店によって、紅茶は上流階級だけでなく一般家庭でも楽しめる家庭の飲み物になっていきました。
トーマスの先見の明と商才が紅茶を一般化させていったんですね。それと18世紀の半ばになる頃には、紅茶も輸入量が増えて値段が下がってきたことも大きいかもしれません
ゴールデンライオンは後に家名の「トワイニング」に名を改め、1837年にはヴィクトリア女王から英室御用達の称号をもらう会社に成長しました。
ちなみにゴールデンライオンがあった場所には、今でもトワイニングのお店が営業されているそうです。
インドでのアッサム種発見
イギリスやオランダなどで飲まれていた紅茶は、19世紀初め頃まで中国原産のチャノキ(以下中国種)がほとんどでした。
つまり紅茶は中国から手に入れることしかできなかったんです。
ですが、アッサムの奥地で中国種とは違うチャノキであるアッサム種を発見したことがきっかけで中国以外でも紅茶が生産できるようになったんです。
このアッサム種発見はインド紅茶だけでなく、紅茶の歴史にとっても大きな発見だったんですよ
まず、最初にインドで紅茶を栽培しようとしたのはイギリスでした。
19世紀に入る頃、この時代インドは実質イギリスの植民地で、当時のイギリスは増え続ける紅茶需要に応えるため、中国からの輸入以外でも紅茶を仕入れられるようインドで茶葉の栽培をしようと動きました。
しかし、インドの気候では中国種のチャノキはうまく育たずほとんどが失敗に終わります。ですが、 1823年にイギリス軍に所属していた「ロバート・ブルース」がアッサム種を発見したのです。
ただ、発見からすぐにアッサム種の栽培が本格的に始まることはありませんでした。発見当初アッサム種はチャノキとは認められず、認められたのは約10年後のことです。
この10年の間も発見の翌年に病で亡くなったロバートに代わり、弟のチャールズ・アレキサンダー・ブルースがアッサムの地で栽培に尽力していました
このアッサム種の発見から11年後の1834年にインド提督が「茶業委員会」を設立して、茶葉の研究や実験、中国から製茶技術を学んだことで徐々にインドの紅茶産業は拡大していきました。
チャールズもアッサム種栽培の責任者になり、その後の紅茶産業に大きく貢献してきます。
その努力の甲斐があり、アッサム紅茶はロンドンのティーオークションでも高い評価を受けるようにななったんです。
加えてアッサムはイギリス人好みのミルクティーによく合う風味だったので受け入れられるのに時間がかからなかったそうです
また、アッサム種は中国種より葉が大きいのでより多くの茶葉を生産できるようになりました。中国以外でも生産でき、生産量も増えたことでイギリスの増え続ける需要にも答えることができるようになったんです。
さらに中国種との交配も進んで、他国にも伝わったことでさまざまな紅茶が誕生していきました。スリランカのセイロンティーなどが有名です。
この事もアッサム種発見がインドだけでなく世界の紅茶の発展にもつながったことがうかがえますね。
インド紅茶やセイロンティーについてさらに詳しくはこちら↓
アフタヌーンティーの誕生
アフタヌーンティーとは、午後のひと時を紅茶や軽食と共に過ごすイギリス生まれの文化です。現代でもこの文化は色濃く残っていますが、今の形で生まれたのは1845年頃でした。
最初にアフタヌーンティーを始めたのはイギリスの公爵夫人だった「アンナマリア」です。この時代の貴族の食事はボリュームのある豪勢な朝食をとった後、ディナーまでの間は軽めのランチなどで済ませる程度でした。
しかもディナーの前に観劇や音楽会もあったので、ディナーを食べるのは夜の20時頃になっていたそうです。
つまりお昼の12時にランチをとったとしても、最低8時間は何も食べずに過ごしていたということですね・・。
それだけの時間何も食べずにいるのはさすがにお腹が空くということで、アンナマリアは15時から17時の間に紅茶と共に軽食を食べることで空腹をしのいでいました。
これがアフタヌーンティーの始まりです。
アンナマリアは最初は一人で楽しんでいましたが、やがて客を招待するようになり次第に貴族間でアフタヌーンティーが広まっていきました。
アフタヌーンティーは応接間で行うものだったので、応接間に客を招いてサンドウィッチやスコーン、ケーキを紅茶と共にふるまって会話などを楽しんだそうです。
アフタヌーンティーでよく見るティースタンドは、応接間の小さなテーブルでもたくさんのティーカップや軽食が乗せられるように考案されたんです
また、アフタヌーンティーは貴族の夫人たちが生活を発表する場でもあったので、部屋のインテリアやおもてなしのセンスなどが問われていたみたいですよ。
ティーバッグの誕生
紅茶を茶葉から入れる時、茶葉を必要な分量に量ったり飲んだ後の茶殻を片付けたりするのも意外と面倒ですよね。
そんな悩みを解決してくれたものが、今や知らない方はいないと言っていいほどお馴染みのティーバッグです。スーパーやコンビニでも手軽に購入することができますね。
そんな画期的な発明と言えるティーバッグは最初イギリスで生まれました。1903年にロベルタ・C・ローソンとメアリーモラレンという2人の女性が発明し、特許も取得していました→Google特許
ただ・・当時としてもかなり画期的な発明だったのに、いかんせん伝統を重んじるイギリスでは受け入れられず普及しなかったようです・・
イギリスでは普及しなかったティーバッグですが、1908年にアメリカのコーヒー貿易商であるトーマス・サリヴァンがいくつもの偶然が重なったことで新たに発明し、ティーバッグが世界中に広まっていくことになりました。
まずトーマスは、当時ブリキの缶に入れて顧客に送っていた紅茶のサンプルを、経費削減のため絹や木綿の袋に入れて送りました。
すると顧客の勘違いだったのか思い付きだったのか、なんと袋ごとお湯に入れて紅茶を煮だしたのです。
しかも、これが大変便利と好評で、それを受けて袋入りの茶葉を商品化すると瞬く間に大ヒットしました。
イギリスと違い、アメリカでは効率や利便性を重視していたのでティーバッグは早く簡単で手軽に入れられるとあって、あっという間に普及したんです
イギリスでも1950年頃から販売されましたが、当初は敬遠されていたようですが徐々にイギリスでも受け入れられるようになり、2001年には国内消費の9割がティーバッグになりました。
今や当たり前の存在になったティーバッグは、いくつもの偶然とアメリカの国民性が生んで広めたものなんですね
アメリカが生んだ紅茶の文化はティーバッグだけではありません。夏の暑い日に飲むととにかくおいしいアイスティーもアメリカ生まれなんです。
1904年にアメリカで開かれたセントルイス万国博覧会で、紅茶の宣伝をしていた紅茶商人の「リチャード・プレチンデン」が紅茶の販売をしていましたが、季節が7月の夏だったので熱い紅茶の売れ行きは思うように伸びませんでした。
そこで試飲用の紅茶に氷を浮かべてみたところ、人々が冷たい紅茶に殺到。これがアイスティーの始まりで、現在でもアメリカでは紅茶を飲む時にはアイスティーにして飲むことが多いそうです。
まとめ
- ヨーロッパに最初にお茶を輸入したのは17世紀のオランダ
- イギリスにお茶が知られるようになったのはコーヒーハウス・ギャラウェイとキャサリン王女がきっかけ
- 紅茶は17世紀の後半に武夷茶が完全発酵して生まれたが経緯は不明
- トワイニングの前身になったトムとゴールデンライオンが紅茶を一般家庭にも浸透させた
- インドでアッサム種が発見されたことでインドでの栽培が可能になり中国以外でも紅茶の生産が可能になった
- アフタヌーンティーはイギリスの公爵夫人のアンナマリアが考案した
- ティーバッグはアメリカで新たに考案されたものが大ヒットして世界中に浸透していった
紅茶の歴史。たどってみると中国由来だったとは驚きですよね。私も昔はヨーロッパで生まれたと思っていました。
紅茶が世界に広まりさまざまな文化や紅茶の種類が生まれたのに、イギリスの存在もとても大きく、ティーバッグやアイスティーなど、イギリスとはまた違う革新的な紅茶の文化を生んだアメリカも紅茶の歴史には欠かせないでしょう。
今のように紅茶を手軽に楽しめる時代に感謝しながら、いろんな紅茶を楽しんでいきましょう!
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